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2011年3月3日木曜日

さよならスマイルさん ~放蕩息子の帰宅~


さよならスマイルさん 
~放蕩息子の帰宅~
石塚伸一(龍谷大学)

2011年3月1日、スマイルさんの訃報に接した。御殿場の施設で亡くなったとのことで、清潔なベッドの上での安らかな死だったそうだ。おそらく年齢は70歳になろうとしていたはずだ。

【スマイルさんとの出会い】 
わたしがスマイルさんとはじめて会ったのは、NHKの朝の連ドラで「ふたりっこ」をやっていたころだった。1996年10月から翌97年の放送であるから、そのころであろう。ストーリーは、大阪の下町で丙午の年に生まれた双子の麗子と香子の成長と彼女らを取り巻く人たちの人間模様を描いたもので、売れない歌手のオーロラ輝子や賭け将棋を生業とする真剣師の銀じい(佐伯銀蔵)など個性的な人物が織りなすドラマで、双子の子役マナカナが人気をはくした。

8時15分から15分間の放映で、当時、北九州に住んでいたわたしは、子どもたちと朝ごはんを食べながら連続ドラを見るのが日常的習慣になっていた。ときに箸を止め、この罪のないドラマを見るのが朝のいつもの風景であった。

それは、毎日といっていいだろう。エンディングの音楽が流れ、それが終わるかおわらないかのタイミングで電話の音が鳴る。電話の先はスマイルさん。話の内容は、いい物件があるから借りたいとか、支援をしてくれるという人がいるとか、新しくダルクをつくるとか、景気のいい話のオンパレード。そして最後はいつも、来月になれば大金が入るから、それまで部屋代や水道料金が何とかならないかと金の無心。妻1人、子ども2人のしがない公立大学の教師には、到底お金の都合などつくはずもなく、みんなにチャリティーを呼び掛けたり、講演会をしてカンパを集めたりのお手伝いをするくらいしかできなかった。それでも、スマイルさんは、毎朝、エンディングの前になると電話を掛けてきた。「ふたりっこ」のファンだと言ったことがあるので、邪魔しちゃいけないと思って、電話の向こうでいまかいまかとエンディングの音楽が終わるのを待っていたのだろう。

【研究者やめますか?大学やめますか?】 
その頃わたしといえば、もう大学を辞めて何か違う仕事を探そうかと考えていた。1992年から93年にかけてドイツに留学し、社会治療という刑事処分について調査研究し、被収容者の自己決定を基盤として、社会復帰の支援をする新たな刑事制裁の在り方を模索していた。しかし、そこには大きな壁がそそり立っていた。

刑罰が人の犯罪行為に対する制裁であるということは誰も否定しない。しかし、その執行については、ただ苦痛を課すだけでなく、その人の改善更生・社会復帰に役立つもののほうがいいような気がする。刑罰的害悪を付加については責任に対する制裁であるということで説明できるが、改善更生を強制する根拠は一体なんなのか。

改善という以上、「善」すなわち、正しい方向にむけて変わることが求められるわけだが、何が善なのかはかならずしも明確ではない。ある時代、ある場所では善であったことが、ある日突然、悪になることがある。お国のためと敵を殺して勲章をもらっていた人が、敗戦によって犯罪人になるのである。戦前の少年刑務所では、窃盗や暴行をはたらいた少年たちと一緒に社会主義運動に傾倒する少年が収容され、「愚かにも国体に反するような思想を信じたこと」を反省させる作文を遷善更生のために書かせていた。

こう考えてくると、改善更生は強制できないのではないかということになる。さりとて、刑罰は最低限度の害悪の付加であるから、刑務所に拘禁して移動の自由を奪うだけで、服役中の毎日を無為に過ごすことは人間の本性に反しているように思う。外にいれば、善いと思うことも、悪いと思うことも繰り返し、反省しながら、人は成長していく。失敗は成功のもと。つぎのチャレンジへの布石である。

「自由の拘束をできるだけ縮減しながら、他方で社会復帰に向けての支援を保証する」そのような論理構成はありえないのか。これがわたしの前に立ちふさがる大きな壁であった。

【黄昏のブタペスト】 
その解答は、黄昏のハンガリーのブタペストの街を歩いているときに降りてきた。すなわち、

自由刑の刑罰内容は身体の現実的移動の制限に尽きる。しかし、人間は拘禁されていなければ、限りない自己啓発(Selbstentfaltung)――ギシギシ巻かれた発条(ぜんまい)が爆(は)ぜるときの様子を想起せよ。――の可能性をもっている。しかし、拘禁されていることでその可能性が奪われてしまっている。そこで、本来の刑罰内容である拘禁に伴う弊害を可及的に排除し、埋め合わせをするため国は、受刑者を支援しなければならない。受刑者には社会復帰をする権利があり、国にはそれを支援する義務がある。

このようにして難問は、一瞬で解決した。ところが、それはあくまでの理論的な話で、現実にこのようなことを実行できるかが問題になる。

ドイツ憲法――基本法という。――には「社会的法治国家原則」というものがあって、「レーバッハ判決Lebach-Urteil」という連邦憲法裁判所の判決が、犯罪をおかしてしまった人と社会との関係については明らかにしている。すなわち、

犯罪をおかした人もまた、人間の尊厳に由来する基本権の担い手として、みずからの刑を務めたのちは、再び共同体の中でみずからを位置付ける機会を与えられなければならない。社会復帰――ドイツでは、再社会化というのは一般である。――は、これを行為者の側から見れば、基本法1条に拘束された同第2条1項から生ずるも個人の利益である。他方で、これを社会の側から見れば、社会国家原則は、人格の弱さや行為責任、能力の不足や社会的差別によって人格的および社会的な成長発達が妨げられている社会的諸集団に対して、国が配慮し、保護することを求めているということを意味する。受刑者や刑余者もこの例外ではない。したがって、犯罪をおかした人の社会復帰は、社会それ自体の保護にも役立っているのである。つまり、行為者が再び犯罪をおかさないということは、共同体とその構成員に新たな損害を与えないということである。その意味では、社会自体が、受刑者の社会復帰によって直接的な利益を得ていることになる(BVerfGE 35,236)。

ところが、日本にはこのような憲法原則がない。平等原則や幸福追求権、教育を受ける権利や勤労の権利その他の社会権条項から社会復帰の権利を論理的・体系的に導き出すことになる。 

現実はもっと厳しかった。ドイツのようにソーシャルワーカーや心理療法士、社会教育者のポストが刑務所の中にも常勤職として配備されている国とは異なり、日本ではその足場がない。本人の自由な意思を尊重するといっても――『被収容者処遇法』第30条は「受刑者の処遇は、その者の資質および環境に応じ、その自覚に訴え、改善更生の意欲の喚起および社会生活に適応する能力の育成を図ることを旨として行うものとする」と規定する。――、プログラムの企画や情報の提供、受講の働きかけがなければ、社会復帰の意志は芽生えず、理念は絵に描いた餅に終わる。日本では、社会復帰処遇は、到底、不可能だと思い込み、悲嘆に暮れていた。

【スマイルさん登場】 
そこに登場したのがスマイルさんだった。クスリを止めて10年以上になるが、いまでも自分は回復途上、依存症が完治したわけではない。ミーティングと仲間の存在がクスリを止めてくれているにすぎないとみずからを語る。ミーティングの場を増やし、回復したいと思っている仲間を支援するためにお金を集め、つぎつぎとダルクを立ち上げる。彼こそが、自分の意志で回復のために頑張る「セルフヘルプ」のモデルだと思った。そうであれば、わたし個人も、地域社会も、そして政府も、彼らを支援する義務があると考えた。

そして、北九州にはダルクができた。シンナー乱用の発祥地などといわれ、薬物中毒・依存に効く薬はないと諦めていた人たちが回復への希望をもちはじめた。そう、ダルクができて地域が明るくなったのである。
 
新約聖書の「ルカによる福音書」第15章は、厳格なユダヤ教の律法を守れない人たちを蔑んだファリサイ派の律法学者にキリストが反論する姿が描かれている。キリストは3つのたとえ話をする。1つめは見失った羊が戻ってくる話、2つめは銀貨を無くした女がそれを見つける話、最後は放蕩の限りを尽くして落ちぶれて帰ってきた息子の話である。

画家レンブラントは、その晩年に「放蕩息子の帰宅」という絵を描いている。すなわち、

ある人に息子が二人いた。弟の方が父に財産を生前に分け与えるよう頼み、父はそれに応じた。弟は家を飛び出し、浪費と贅沢の末に財産を無駄遣いしてしまった。弟は自分の行為を悔やみ、恥を忍んで父の元に帰る。すると弟を迎えた父は盛大に息子の帰宅を喜んで祝う。それを見た兄は父に不満を訴えた。父親は言った。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(第15章31-32節)。

一度は、もうわたしたちのもとに戻ってこないだろうと思った薬物中毒・依存の人たちが、社会に戻ってきて、みんなの手助けをしている。彼らの回復は、当事者自身のためだけではなく、周囲の人たちにも大きな喜びと希望を与えている。

わたしも、喜びと希望を与えてもらいました。研究を止めてしまおうかと迷っていたときにスマイルさんに助けてもらいました。いまも、大学で研究をつづけています。
 
スマさん。本当にありがとうございました。安らかにお休みください。

(追記) レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)は、「放蕩息子の帰宅 "The Return of the Prodigal Son"」を自らの息子ティトゥスを失った1668~69年頃に描いたという。そして、彼自身は、その翌年に世を去った。その絵は、サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館に所蔵されているとのことである。

2011年3月3日 風花の舞う深草の研究室で

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